苗字と宗教
日本は無宗教国家……そんなふうに考えていた時期が私にもあった。
然し実際は神道、仏教、儒教等の信仰と崇拝が我々の生活に馴染み過ぎており、それらを自覚できていないだけである。敢えて言うなら「無神論国家」とでも呼んでおこうか。
苗字を調べていると、日本人と宗教(特に仏教)の繋がりがより強いものであることを実感させられる。日本人が苗字・名前の順で名乗るのは正に儒教の影響である(儒教が宗教かどうかと云う議論に就いては割愛)。儒教は祖先崇拝の考えを持っており、家制度などはその代表である。因って個人よりも家を尊ぶ儒教の国家では、苗字から名乗るのが一般的である。逆に個人名から名乗るアメリカでは、苗字もWhite(色白)、Brown(茶髪・色黒)、Young(若い)、Long(長身)、Truman(正直な人)、Franklin(自由保有地主)と個人を表すものが目立つ(これらは「ニックネーム姓」と呼ばれる)。
日本で二番目に多い「鈴木」と云う苗字も宗教と関わりがある。
昔の人は、田圃で刈り取った稲を大量に積んで干していた。この稲の山に棒を立てておくと、そこに神様が降りてきて稲に稲魂(ウカノミタマ:稲の神)を宿すと信じていた。
これを昔の人は有難がって、稲穂が積まれた様子から「穂積」と云う苗字を創った。後にこの稲の山を「すすき」と呼ぶようになり、「すすき」と云う言葉の登場に合わせ、穂積さんの中に苗字を「鈴木」へと改めた人が現れた。これが鈴木と云う苗字の起こりである。即ち鈴木と穂積の間には「鈴木⊂穂積」と云う包含関係が成り立つ。
そして全国三千社を誇った熊野神社の総本山の神官が鈴木氏であり、有史以前から存在していた自然信仰の大手である熊野信仰に肖って、各地に鈴木を名乗る人が増えていった。因って血縁関係こそ無いが、鈴木と云う苗字のルーツは全てこの熊野神社に回帰する。
比較的ポピュラーな「望月」と云う苗字。
こちらは地名由来であるが、その地名の由来は月に対する信仰の神事を元にしたものであり、 言ってしまえばこれも宗教と関わる苗字である。
このように、有り触れた苗字でも宗教由来のものは多く存在する。「山本」や「大森」も宗教が元になっていると主張する人もいるくらいである。
日本での代表的な宗教のシンボルとして寺や神社が挙げられるが、凡そ一年前の記事にも書いた通り寺社に仕える僧侶や神主には独特な苗字が多く、それらは「寺社姓」(寺院姓)としてジャンル分けされている。
儒教に対して仏教には出家と云う教えがあり、文字通り修行の為に「家を出る(家を捨てる)」必要があったので、僧侶は元々苗字を持たないものだった。「昔の日本では、公家や武士だけが苗字を持っていた」と云うのは誤りで、実際は認められていないだけで、平民も勝手に苗字を持っていた。明治8年に平民苗字必称義務令が出た際多くの人は既に名乗っていた苗字を正式な苗字としたが、苗字を持たない僧侶達は仏教用語などを元にして苗字を新たに創った為、特徴的な苗字が多くなった。
寺院姓の例を挙げてみる。
「釈迦」「観音」「菩提」「菩薩」
「合掌」「念仏」「法華」「般若」
「南無」「瑜伽」「方便」「放生会」
「転法輪」「降魔」「瞿曇」etc.
これらは皆仏教用語をそのまま用いた苗字。
補足をすると、「瑜伽」はヨガの元となった言葉。
「放生会」は魚や鳥などを野に放つことで殺生を戒める儀式のこと。
「転法輪」は仏が人々に仏教の教えを説くこと。
「降魔」は読んで字の如く、魔を降(くだ)すこと。
「瞿曇」は釈迦の本姓(=ゴータマ)。
「釈」「釆睾」「采睾」「釆睪」
これらは全て釈迦から「釈」の字を拝借した苗字。
後ろの三つはどれもワケミと読む。「釋」の字を分解したものであるが、何故ワケミと読むのかは失念。
「雪草(セッソウ)」
僧侶が自分を遜って言う言葉「拙僧」に当て字したもの。
「羅漢」
仏教に於いて聖者のことを指す「阿羅漢」の略。
「四衢(ヨツツジ)」
法華経に載っている心の安穏を説く言葉「三界の火宅、四衢(シク)の露地」から。
「梵(ソヨギ)」
梵(=ブラフマン)はインド哲学に於いて万物の根源を表している。
野球選手の苗字として有名だが、恐らく彼の一族しか存在しないと思われる。
「頗羅堕(ハラダ)」
釈迦の弟子の一人である賓頭盧頗羅堕から。一般的な原田とは無関係。
「宇宙」
寺院姓ということだけ分かっているが、何故苗字を宇宙にしたのかは分からない。
「三那三」「𨸟芦多」
恐らく元々は「南」「黒田」だったのを態々変えた例。クロダと打ったら変換してくれるiPhoneさん遉。
「㬢(アサヒ)」「鬽(コダマ)」「豅(ナガタニ)」
パソコンでの変換もままならない字を用いて創姓した現代人泣かせの僧侶もいたらしい。パソコンですら変換出来ないんだから、こんな苗字読める訳が無い。しかしそんな困った苗字の人ももう大丈夫。そう、iPhoneならね。
上に示したのはほんの一例であるが、全て稀少な苗字であり、全国に一世帯しかないものもある。
寺社自体の分布が偏っている為、こういった寺社姓は存在する地域としない地域の差が明確である。然し多くの寺社に於いて夫々の僧侶・神主が祈りを込めた独自の苗字を創った為、寺社姓の被りは少ない。因って寺社姓の種類は豊富になり、各寺社姓の世帯数は少なくなる。
仏教系の大学の教員の名前を 見ていると、こういった特徴的な苗字を多く見つけることが出来て面白い。
現在の日本に於いて「宗教」と云う言葉は腫れ物に触るかの如く扱われている。
最早何が宗教で何がそうでないのかの区別は至極曖昧なものとなったが、何物かに対する信仰があればそこには大なり小なり、広義での宗教が発生するのではないかと私は勝手に解釈している